「新島襄海外渡航の地碑」は、函館の緑の島付近にある碑です。
「新島襄」は、この地から海外に渡航したと云われます。
「新島襄海外渡航の地碑」説明板
新島襄は、新知識を海外に求め、吉田松蔭の海外渡航の失敗を考慮し、渡航地を蝦夷地に選びました。
元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。
渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。
明治23年(1890年)48歳で没。
元治元年(1864年)江戸から来て、ニコライ司教(ハリストス正教会2代主教)に日本語を教えたりなどして脱出の機会を待っていたが、同年6月14日(新暦7月17日)深夜、福士成豊(日本最初の函館測候所開設者)の助力により、この地から国禁を犯して海外渡航に成功しました。
上海経由で渡米した新島襄は、修学10年の後、明治7年(1874年)帰国し、翌8年京都において同志社大学の前身である同志社英学校を創立しました。
この碑にある「男児志を決して千里を馳す 自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」の漢詩は、新島襄の自作自筆によるもので元治2年(1865年)香港での作です。
渡航前の名前は新島七五三太(しめた)でしたが航海中に船長から「ジョセフ」名をもらい、略して「襄」の字をあてました。
明治23年(1890年)48歳で没。
新島襄海外渡航の地碑
周りは目の前に緑の島、横が海上自衛隊函館基地隊があり、金森倉庫群から歩いて約10分ほどで行くことができます。
金森倉庫群から海沿いを歩きながら行くことができます。天気が良ければ、心地よく歩いてみましょう。