北海道北斗市在住の写真家・及川修です。旅のことや撮影機材や撮影方法などのことを書いていきます。無断使用はお断りします。

旅の化石 Photo Library

【札幌市定山渓】秋の豊平峡風景

昨日、10月19日に撮影したものです。

昨年(2018)撮影したのは快晴でした。今年はあえて悪天候の時期に行くことにしました。
札幌の奥座敷と呼ばれている定山渓地区に、豊平峡ダムがあります。豊平峡周辺にも「豊平峡温泉」があります。本当に北海道は温泉大国ですね。

定山渓について

札幌市内にある温泉地です。年間約120万人が宿泊する、北海道内でも人気の温泉です。
開湯は古く、1866(慶応2)年、修験僧・美泉定山(みいずみじょうざん)が、湯治場を築いたことに始まります。一方で定山渓は景勝地としても有名で、白糸の滝、湯の滝、舞鶴の瀞など、四季折々に美しい景色に出会えます。

豊平峡ダムについて

札幌市南区定山渓、一級河川・石狩川水系豊平川の上流部に建設されたダムです。
ダム湖である定山湖の名称は、定山渓温泉の開祖である修験僧・美泉定山(みいずみじょうざん)の名前に因んだもので、定山渓観光協会が観光の発展の為に建設省に要望して命名された経緯がある。

美泉定山(みいずみじょうざん)について

美泉 定山(みいずみ じょうざん、文化2年(1805年) - 明治10年(1877年)11月4日)は、備前国(現在の岡山県)出身の僧侶である。のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。

文化2年(1805年)、備前国曹洞宗の名刹妙音寺の二男として生まれる。「美泉」という苗字は、明治初期頃、定山があえて作ったものである。
17歳の時に実家を出て、道場で修業を積んだ後に、北上し秋田県で布教活動を行う。
1853年(嘉永6年)に48歳で北海道へ渡り、江差で観音寺を再建し、瀬棚に6年暮らす。1866年(慶応2年)、61歳の時に、小樽の張碓(はりうすちょう)は北海道小樽市の地名)に住み始める。同年、現在の札幌市南区の定山渓温泉で源泉を確認し、後に湯治場を設ける。この源泉については、付近のアイヌが存在を知っており、幕末の探検家・松浦武四郎の紀行文にも登場するが、温泉宿を営むまでに紹介したのは、定山であり、「定山渓」の名前の由来となる。さらに定山は同地に定山寺を開く。なお、1870年(明治2年)ごろ「平民苗字許可令」が発令され、定山は苗字を「美泉」と名乗る。1871年(明治3年)、開拓使判官の岩村通俊より、「湯守り」を任じられる。1876年(明治8年)、小樽と「定山渓」を結ぶ山道開発に携わる。
1877年(明治10年)、張碓(はりうすちょう)は北海道小樽市の地名)の山中で病気のため死去。享年73。その死は定山渓まで知らせが届いておらず、長きに亘って「行方不明」扱いとなっていた。

ウィキペディアより引用

秋の豊平峡の撮影

麓まで車で行くことが出来ます。支笏洞爺国立公園内にあることから、環境保護のためにダム入口の冷水トンネルからダムサイトまで一般車両・バイク・自転車の乗り入れは通年禁止となっていています。電気バスか、徒歩で行くことが可能です。この時は電気バスで、ダムサイトまで行くことにしました。

当時の豊平峡の天気は

天気は、小雨です。この天気の方が、写真的にはいいと思っております。ピーカン(快晴)も重要ですが、このくもりや雨の時がいいのが撮影できます。好みの問題と考えてしまいますが、逆にこの光景はこの時にしか撮影できないのです。

この写真もあれこれと撮影した1枚です。

撮影時の時

小雨降る中ですが、雨合羽を着てじっくりとチャンスを待ちますが、この時は凄い風で、次々と風景が変わって行きます。雲が引いてみたり出て来てみたりと、数分で光景が変わります。どのチャンスでシャッターを切るのか?と聞かれたら、それはファインダーを覗いて自分で判断します。

どこがシャッターチャンスと感じるのは、己(自分)次第です。センスが出るのもこの時かもしれませんね。

どう撮っていいのかわからないのは、当たり前ですが現場慣れしていない証拠です。自分が心踊る時、ファインダーを通じて「今だ!」と感じる時です。せっかくのシャッターチャンスを逃しても、次に生かすことを繰り返して「写真表現」が身につきてきます。

秋の豊平峡風景 まとめ

まずじっくりとカメラを三脚に据えて、周りを見ることです。気になった場所を見つけて、レンズ、露出を決めてその時を待ちます。
基本はどの被写体も同じことだと思います。雨に濡れながらの撮影は辛いですが、自分の気に入った時が現れてくるとそういうことを忘れてしまいます。夢中になることですね。

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